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「惰性と後悔」
かつて自分がいた、という場所は時として心を苛むことがある。
見知った大学の建物群がよそよそしく感じられて、変わらず笑う見知った人たちの空気が、見えない膜を貼ったように去って行った者を疎外する。
夕暮れの広大なトラックも小さな人影が動き続けるだけで、長い影を作る斜陽が逃れられない世界であることを演出―――。
世界の中で孤独を感じるのはこんな時だった。
背を向けてゆっくりと立ち去る。
変わらない風景は感情を刺激して、過ぎ去った日々を見せ続ける。
吐き気がしそうだった。
罪悪感ばかりが湧き上がる。
きっと、楽しい思い出もそこらに沢山あったはずなのに。
いっそのこと、あまりの悲しさに泣き崩れることが出来たらと思った。
でもこれは、そういう類の悲しさではない。
自ら望んで立ち去った者が、置き去りにされた孤独を味わうのは何とも言えない皮肉だ。
作るのは難しかった。
人の輪を心地いい空間にするためには、多大な労力と時間を費やす必要がある。
数々の出来事を共に体験し、同じことを思い、時には違うことを感じて、それを伝え合い繰り返す。連綿と絶え間なく思い出を、長い時間をかけて積み重ねていってこそ絆は生まれるのだった。
でも壊れてしまうのは一瞬だ―――。
(ぼくが、ちゃんと注意を払っていなかったから―――)
崩壊の予兆はあったのだ。
土台がはっきりとしない、いつもグラグラと揺れながら必死にしがみ付いていた毎日だ。
壊れないと思っていたほうがおかしかったのだ。
でも、そこに当たり前のようにあった現実を甘受し、それが永遠であるかのように錯覚する。
弛緩した空気が発する甘い感覚は麻薬と変わらない。
鋭利な猜疑心を麻痺させて捕らえた人間をいとも簡単に虜にする。
外側に立った今ならばよく分かる。
そして、呼び起こされた猜疑心と共に過ぎ去った過去を見つめなおす事だって―――。
「止めよう・・・・・・」
何事もなかったように空を見る。
雲ひとつない乾いた夕暮れ。
少し歩いてまた立ち止まる。
「・・・・・・言いたかった、ことがあったんだ」
伝えるべき相手はいない。喪失したのはもう三年も前になる。
「所詮は恋人ごっこだ。好きだと嘘をつくのは簡単だったし、そのうち好きになれればいいって思っていた―――」
「・・・・・・そういう風に歪んでいるから、寂しい思いをするのよ」
幻聴かと思った。
しかし、凛として響く確かな存在感に驚きと懐かしさを感じずにはいられない。
「噂をすれば、なんとやらって・・・・・・」
「それは噂じゃなくて独り言っていうのよ」
振り返る。
昔よりも随分と伸びた髪。
黒を基調にシックにまとめたコーディネートは過ぎた時間を思わせた。
「どうしてここに?」
「わたしはまだ続けているのよ」
そう言って彼女は目線で促す。
彼女の見つめる先は、すでに夜の藍を纏い始めたトラックだった。
「煙草臭いわね。それじゃもう走れないでしょ?」
「今なら100メートルで吐く自信があるよ」
肩をすくめて見せる。平静を装うように。
「懐かしいわね」
「何が?」
「初めて会ったときもそんな風に軽口を叩いて、いかにも人当たりがよさそうな振りしてたわ」
「その方が、色々と都合がいいんだよ」
「斜に構えて世間を見下すようなところも、ね」
「・・・・・・・・・・・・」
自分の矮小さを的確に指摘される。
「・・・・・・そう言えば君は、口が悪かったね」
「それこそ今更ね」
心なし楽しそうな彼女も懐かしかった。
「懐かしいわね」
「僕もそう思ってたよ」
「でも、思うのはそれだけ」
「・・・・・・そうだね」
三メートルほどの距離だろうか。
それが僕と彼女の関係を明確に表している気がした。
「どうしてここに?」
答えづらいことだ。本人を前にすれば口を開くのも億劫になる。
「・・・・・・分からない」
「独り言を言う為にきたのかしら?」
「意地が悪いね」
カラカラと渇いた笑い声。ひどく自虐的だった。
「少なくともわたしは、あなたの心の慰めに付き合うのは御免だわ」
言葉の峻烈さとは裏腹に彼女の口調は優しい。
「思い出せないんだ」
口から出た疑問。
「好きだった気もする。寂しくて寄り添っていただけのような気もする。君じゃなければならなかったのかな?それとも近くにいたのがたまたま君だった?」
「・・・・・・あなたは後者だと思うんでしょ」
「好きになろうって決めたからそうなったんだと思う」
「私にはあなたの望むような結論は言ってあげられない」
「違うよ、非難してほしいんだ」
怯えが混じり、声が掠れた。
「それも、お断りよ」
「罪じゃないのか?」
「好きじゃなければならないなんてルールもないわ」
「体を重ねても、かい?」
「お金を払えばいくらでも重ねさせてくれるわよ?」
「僕が言いたいのはそんなことじゃない―――」
口調が荒々しくなった。
彼女は困ったように溜め息をつく。
「恋人ごっこ―――、それはあなたが言った言葉よ。遊びだったら本気なる必要もないでしょ?」
「でも近づきすぎれば遊びじゃ済まされない」
「あなたが決めただけ」
「近づきすぎれば所有権を主張するじゃないか。互いを大切にするって刷り込みは思ったよりずっと強固だよ」
「違うわね・・・・・・」
「何が・・・・・・、違うんだ?」
「あなたはそれも含めて、『ごっこ』と定義したはずよ」
彼女はいつも否定を繰り返す。
「あなたはいつまで、密室の中にいるつもり?」
「密室?」
「悲しいのもあなた、後悔するのもあなた、結局あなたは自分の内にしか興味がないのよ」
「そんなことは―――」
語尾が掠れる。ない、とは言い切れなかった。
「自分の独占欲を満たすために自分の所有物であることを確認する。自分の所有物であることを他人に見せびらかして優越に浸る」
「否定はしない・・・・・・」
「そうね、あなたはそんなことに後悔してるもの」
「そんなこと―――?」
僕が彼女を咎める。
「呆れたわ、自分のことさえも満足に分からないの?」
彼女は僕を咎める。
互いに睨み合うように、空気は緊張感を孕む。
「・・・・・・そんなものは、大した問題じゃないのよ」
俯き呟く声は、硬さを帯びていた。
暮れゆく夕陽の影となったその表情は読み取ることができない。
「それに気が付かないならば、あなたはずっとそのまま自意識の密室の中」
「・・・・・・・・・・・・」
「あなたの歪んでいるところはそこじゃないのよ、学」
久しぶりに、名前を呼ばれた気がした。
先ほどの咎める口調とは正反対の哀れみを帯びた声で。
「好きと、大切は同列でなければならないの・・・・・・」
「・・・・・・それは、理想だ」
「いいえ、それが出来ないからあなたは破綻しているのよ」
決心したような強い語気は急所を穿つようだった。
「後悔するのは悪いことではないわ。過去の失敗を見つめて未来に生かそうとするのは、前進しているということだから」
一度言葉を区切り、
「でもね、あなたのそれはただ自分を貶めているだけ。自分を貶めて、自分自身で憐れんでいるだけよ」
穿った傷口を抉るように。
「そんなのは、不毛なだけでしょ・・・・・・」
そして無慈悲に、言葉のナイフを抜き取るように。
「そんなわけはない」
「だったら、一人だけずっとそこで停滞していればいいわ」
「僕を憐れんでいるのは、君だろう?」
彼女は目を見開いた。そして翳りを帯びた笑みを薄ら浮かべた。
「そうね・・・・・・、あなたは、憐れだわ」
それは諦めを表しているようでもある。
「もう、終わりにしましょう。いつまでも平行線よ」
「そうだね」
そう言って彼女は踵を返し、すっかりと暗くなったグラウンドへと足を運ぶ。
僕も、その正反対を向いて歩を進め始める。
「学―――」
「なに?」
背中から呼びかけられた声に振り向かずに答える。
互いが背を向けたままで。
「それでも私は、いつかは向き合ってほしいと思っているわ」
「それが、正解ならね・・・・・・」
「答えは、もう出ているのよ」
「・・・・・・・・・・・・」
認めない。
「そばにいてくれてありがとう・・・・・・」
――――――!
振り返る。
でも今度こそ、彼女が立ち止まることはなかった。
冷たい空気。
歩くだけで風が肌を擦り切るような感覚。
人も同じ。
生きようとするだけで肩がぶつかり。
転んで、踏みつけられて、頭が軋んで。
薄汚れた心のままで。
誰かが手を差し伸べるのを待っている。
そして、その心と向き合うことを。
潔癖だった彼女は望むのだ―――。